《難経》の時代



《難経鉄鑑》では、《難経》の内容の側面から、これは扁鵲の著書に間違いないであろうと断じていますけれども、《難経》の成立年代と作者について実は、中国と日本において、過去さまざまな説が提出されています。

そもそもこのような中国の古医典は古代の名人や聖人の名を冠して書かれることも多く、現存する書物がいつの時代に出来上がったのか判別することが困難なためです。

そのため、原書がいつの時代にどのようにして著されたのかという判別を行うために使われるものに《史記》や《隋書経籍誌》など、時代考証が明確になっている書物があります。この中に、《難経》に似た書名があるかどうか見たり、作られた時代が明確な書物と、文体や内容を比較し、考えていくことになるわけです。





このような時代考証を行う上で、《難経》において特に重視されるものは、《傷寒論》に、『素問、九巻、八十一難、陰陽大論』と、《傷寒論》を書く上で参考とした古典があげられている序文の部分でした。《傷寒論》が著された年代は後漢末期〔注:西暦200年ごろ〕であることはすでに判明していますので、その当時、張仲景が参考書とすることができる状態で《難経》が存在したのではないかと考えられるためです。

しかし、この序文が、本当に張仲景が書いたものであるかどうかということがさらに後代、争われることになりました。





このような複雑な問題に対して、上海中医学院の凌耀星さんはその著《難経校注》の中で詳細な分析を試みています。彼女は、《傷寒論》の序文の内容と本文の内容とを比較することによって、その序文が張仲景が書いたものであると断じ、さらに張仲景はその脉法や診察法および治療理念においても、《難経》を参考にしていたと判断され、《傷寒論》が《難経》を参考にしているということを、二重の観点から証明されました。

そこで私はこの凌耀星さんの説に従い、『漢代の遅くない時期、後漢〔伴注:西暦28年~220年までの192年間〕より以前〔伴注:つまり、張仲景が《傷寒論》を著した紀元200年ごろよりは前〕の医家が秦越人の佚文〔伴注:散逸していた文書〕を集録し、成書としたものである』という結論を採用させていただきます。





その時期に扁鵲の佚文が存在しあるいは言い伝えがあり、尊崇されていたということはどういうことでしょうか。

印刷技術などまだないわけですから、少なくとも200年、長ければ500年もの間、言葉や、竹簡、帛書などとして断片的に伝承されていたものがやっと、この時代になって、まとめ直されたということを、これは意味しているわけです。

このことだけ考えてみても、非常に息の長い話であると私には思えます。しかし、このようにして残され今に伝わる中国の古典には、詩・書・易・春秋・礼記はもちろん、諸子百家の言などかなりの数にのぼっています。これはまさに驚きでしかありません。戦国時代、そして、秦代の焚書坑儒を生き延びて現代まで伝えられた、伝統の力、先人の言葉を残そうとした意力は、まさに凄まじいものであったと言えるのではないでしょうか。





2000年 2月18日 金曜   BY 六妖會


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