1、終戦時の日本人の心

1、終戦時の日本人の心




国内の場合



昭和天皇の玉音放送によって、ポツダム宣言の受諾が宣言されたのは、一九四五年八月十五日のことでした。当時の状況について西尾幹二氏は《国民の歴史》の中で次のように語っています。







しかし、実際には人心の動揺が農村社会をじわじわと揺さぶりだしていたのが真相だ。母が月の光をみても心楽しまず、なにをする気にもなれなかった、といった虚脱感は、政府の敗北宣言に対する母なりの不服従の表現といってもいい。農民の不服従はさらに予想もつかない突発的行動となって現れた。丹精して育てていた稲を未成熟のままに大急ぎで刈り入れる者がいた。当時労働力として大切にされていた牛や馬を、谷川の上流で次々に殺戮した。そして村の人々に肉を共同に分配するなどの行動が伝染病のようにあいついで行われた。下流は赤い血に染まって、そこを横切るときの私たちの驚きは大きかった。(625p)


熊本のある地方では終戦の日から何日何夜も人々が踊り狂ったという話を聞いたことがある。(625p)


まだ実らない稲を刈り取ったり、牛馬を殺害したりする農民の自暴自棄は、都会からの流言だけでは説明がつかない。米軍による食糧強奪がなされる前の緊急処理と説明されたが、それだけとは思えない。まぎれもなくここには自己破壊の衝動があった。未来への拒絶があった。(626p)


玉音放送の日に「天皇陛下は一億玉砕してほしいとわしらに言うのだとばかり思っていた。どうして最後まで竹槍で戦うように命じてくださらなかったのか」と悲憤慷慨の面持ちで口惜しがっていた隣家の老主人のことを私は今、思い出す。やがて、あの放送は天皇のご意志で行われたのではない。陛下は一部の軟弱分子に強制されたのではないか、そういう流言が広がり、米軍を迎え撃つ決死隊が同じ茨城県の筑波山に立て籠ったという噂が人々を興奮させた。(626p)


何かが起こると誰もが信じた。そして何も起こらなかった。緊張の高まりの後には弛緩と昏迷がくる。その異様な空気の中で村人たちは明日を信じない行動に走ったのである。(626p)






われわれは戦争が終わった直後の、未来が見えないがゆえにある意味で自分に正直であった、日本人が歴史にいわば裸身をさらしていた短い一時期のことを、正確に思い出すことが難しくなっている。


先述の桶谷秀昭氏も言っていたが、詩人伊藤静雄の次の言葉にすべてが凝縮されている。


十五日の陛下の放送を拝した直後。太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを照し、白い雲は静かに浮び、家々からは炊煙がのぼってゐる。それなのに、戦は敗れたのだ。何の異変も自然におこらないのが信ぜられない。


天変地異が起こらないのが不思議である。山は裂け、海は褪せてしかるべきではないか。日本人はおおむねみなそう思ったのである。河上徹太郎が『戦後の虚實』(昭和二十二年)の中の「ジャーナリズムと國民の心」というエッセーの中で、次のように語っていたのも今、記憶に甦ってくる。


國民の心を、名もなく形もなく、たゞ存り場所をはっきり抑えねばならない。幸い我々はその瞬間を持った。それは、八月十五日の御放送の直後の、あのシーンとした國民の心の一瞬である。理屈をいひ出したのは十六日以後である。あの一瞬の静寂に間違はなかつた。又、あの一瞬の如き瞬間を我々民族が曾て持ったか。否、全人類の歴史であれに類する時が幾度あつたか。私は尋ねたい。御望みなら私はあれを國民の天皇への帰属の例証として挙げようとすら決していはぬ。たゞ國民の心といふものが紛れもなくあの一點に凝集されたという厳然たる事実を、私は意味深く思ひ起こしたいのだ。今日既に我々はあの時の気持ちと何と隔たりが出来たことだろう!(634p)





戦地の場合





このような思いは戦地でもやはり同じことでした。

元歩兵第五十八連隊の編纂による聞き書き集《ビルマ戦跡》に、いくつかの記載があるので紹介しておきます。







「日本もこれで終わりかも知れない。」


小隊長が信じられない言葉を口にした。


小学校以来「神州不滅」の教育を受けてきた我々は、この言葉を聞いて殺気立ち、小隊長に喰ってかかった。


「小隊長何を言うのです。日本が負けるはずがない。神州は不滅である。」と。


しかし、日ならずして、目の前で光輝ある軍旗を奉焼しなければならなかった。


それでも、「敗戦」ではない「終戦」なのだ、という若い者なりの純な気持ちが幾日も続き、自分自身に言い聞かせていた。


少なくとも敗れたことを認めない兵隊が、たしかに一人ここに生きているのだから、と。



(676p「神州不滅」歩兵砲中隊 佐久美貞次)






飲み終るのを待って、師団長は静かに話し始めた。

「無念ながら日本は戦争に敗れた。だが詳しいことは師団にも何もわかっていない。宮様が南方軍に派遣されたということだが、いずれ軍から指示命令があるだろう。連隊は別命あるまで軽挙妄動することなく、現状のままで待期するように申し伝えてくれ。」


その声は重く憂いを含み、日頃の闊達大声な師団長とは別人のようであった。


我々は張り詰めて来た力も急に抜け、悄然として部屋を出た。追いかけるように、


「くれぐれも軽挙妄動をせぬように伝えてくれよ」という師団長の声が耳朶を打っていた。


それから数日、どこをどうしてバアンの連隊本部に帰ったのか、私の記憶は完全に空白となっている。終戦という大きなショックのあった時期だから、記憶はむしろ鮮明であるべきだが、私の場合は全く正反対である。あるいは、私が精神の虚脱状態に陥っていたのかも知れない。


(680p「終戦の思い出」歩兵砲中隊 西田 将)






八月十七日(国内は十五日)。ああ、何という日であろう。


日本軍の無条件降伏を公式に達せられた日であった。我等は十四日、無電隊の情報でソ連の参戦を知り、これは容易ならざる事態になったぞと感じた。そして十六日には、やはり情報で日本の無条件降伏の噂を聞いた。しかし、国内の状況は一切知れず、まさかと思う心が強く、とても信じられないことであった。


・・・(中略)・・・


しかし、十七日午後七時頃、無条件降伏の公電が入った。未だ半信半疑であったが、十八日に閑院宮殿下がフィリピンに到着し、「忍ぶべからざるを忍び、ひたすら母国の復興を図れ。」という大御心が達せられたことを知るにおよび、ようやく事実を信じた。


・・・(中略)・・・


皇軍不敗、神州不滅を心から信じ、一切を国に捧げて戦ってきた我々だ。皇国はかって外敵の侵害に会ったことはないのだ。次々に起こる心配のため全く虚脱状態であった。大にして、国体はどうなるのであろう。国家はどうなるのであろう。また皇軍はどうなるのであろうか。小にしては、自分は一体どうしたらよいのであろうか。次から次へと懸念は増すばかりで、その一つとして解決のできる問題はなかった。


・・・(中略)・・・


私は、この一命は国に捧げたものと覚悟しながら、その身一つの処置にさえ迷ってしまった。身一つの処分ぐらいは勝手に出来そうなものだが、さて、指揮官の責任を考えると、多くの部下をお預かりしている身に、とうてい軽率な振舞は出来なかった。各大隊長の決心も知り、師団長の訓示も受け、そして最後に腹が決まり諦めがついたのは、終戦の詔勅の大御心を知った時であった。「我等はあくまで皇軍だ。敗れたりといえども皇軍だ。大御心を遵奉して有終の美を全うすることが、自分の最後の御奉公だ。」と達観するまでの悩みは、一人心中悶々として筆舌に尽し難いものであった。今考えると、このように明らかな理論さえわからなくなり、決心がつかなかったのである。


敗戦直後に受けた精神的な苦悩は、おそらく銃前銃後を問わず、総ての国民が味わった人生最大のものであったろう。私の経験も、かってない苦しさであって、そして将来二度と再び、このような苦しさには会いたくない、というのが念願である。


(681p「敗戦の苦しさ」連隊長 稲毛  譲)





このような、「敗戦」という苦しみ、その逆にそれまで培われてきた厭戦感情、敗戦になっても反省しない官僚への反発、廃墟となった都市を眼前にした不安、あるいは精神的な虚脱状態、あるいは日々生きていくことに追われる日本人の、そのただ中に、占領軍がやってきました。彼等は、『日本国民の敵は米英ソなどの連合軍ではなく、これまでの日本の支配階級であり、封建的な日本の歴史意識である』と指摘し、日本人の意識を誘導していきました。その結果、『緊張がプツンと切れて、日本人が雪崩を打つようにその方向へ引きずられてい』(西尾幹二《国民の歴史》641p)くことになりました。






2001年8月30日

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