殉国七士廟





殉国七士廟




殉国七士廟の由来



「殉国七士」と尊称されている人々は、先の東京裁判で、日本を背負って絞首刑となった七人、土肥原賢二松井石根東条英機武藤章板垣征四郎広田弘毅木村兵太郎の七人の、いわゆるA級戦犯のことを指します。

当時の国際法を無視し、大量殺戮兵器を用い、無差別虐殺を行うことによって血塗られた勝利を、大東亜戦争において収めたアメリカを中心とした十一ヵ国による日本処分。これが東京裁判です。戦争犯罪によって得た自らの勝利に基づいて、敗者を戦争犯罪者として裁くという、人間としての誇りを一片なりとも持っていれば行うことができないような裁判によって「裁かれた」ものです。

このような東京裁判によって犯罪者とされ昭和二三年十二月二三日未明に処刑された七人は火葬に付されました。彼らの遺骨が、GHQの目を掠めて採取された(そのため七人の遺骨は混ざり合ってしまいました)状況は、塩田道夫氏が詳しく書かれていますので引用します。







全部の遺体が焼けたのは、一時間半ほど経ってからだった。窯の扉が火夫によって開けられ、長い鉄のカキ棒で白骨が取り出されると、火葬場長の飛田は、七人の遺骨の一部を七つの骨壷に入れて他の場所に隠した。


ところが、この隠した骨壷は、誰かがA級戦犯を憐れんだのか、線香を供えたために、香り煙のために監視の米兵に見つかってしまった。このため骨壷は米兵の手もとへ移った。米兵は、鉄製の鉢の中へ遺骨を入れると、鉄棒のような物で上から突いて、骨を細かく砕きはじめた。それはまさに死者にムチを振る惨い行為であった。


米軍がA級戦犯の骨を砕いて、空から東京湾へ撒くという噂があった。それは日本人が英雄崇拝の対象になるのを恐れて海にばら撒くというのである。遺骨を隠すことに失敗した飛田は、内心穏やかでないあせりがあった。


骨を砕き終えた米兵は、黒い箱を七つ出して、砕いた骨を入れた。そして箱の上に1から7までの番号を書き入れた。この遺骨の入った箱は、A級戦犯の遺体を巣鴨から運んでんきた米兵が持ち去った。台の上に灰と一緒に残っていた小さな骨は、米兵の監視つきで火葬場にある共同骨捨て場に捨てるように命じられたのである。


A級戦犯の遺骨を奪う計画は。小磯国昭大将の弁護人だった三文字正平によって進められていた。三文字弁護士は、米人弁護士のブルウェットに相談し、彼を通じてGHQに処刑されたA級戦犯の遺骨を遺族たちに渡せるように嘆願していたのである。ところが、マ元帥は一向に首を振らなかったため実現はしなかった。


そこで三文字弁護士は、巣鴨プリズンにおいて処刑されたA級戦犯が、久保山で火葬されることを探りあてた。三文字は火葬場のすぐ上にある興禅寺を訪ねて住職の市川伊雄と会った。市川住職は東京裁判にも傍聴に行き、裁判の不公平さに怒りを抱く一人であった。三文字弁護士が市川住職に協力を求める説明にも熱が入った。


このA級戦犯の遺骨が米軍の手から戻されないと、国民が不公平だった東京裁判の結果を認めたことになる。彼らの命令で戦場に駆り出された三百万の英霊さえ、辱めを受けて浮かばれなくなる。市川住職も日本人として耐えがたいことだったので、三文字に協力することを引き受けた。市川住職は、火葬場長の飛田を三文字に紹介したのである。


久保山火葬場の内部に働く人の協力で、はじめはA級戦犯の遺骨を分けて隠すことができたのが、米兵の監視に見つかり失敗した。今度は、火葬場の共同骨捨て場に捨てられているA級戦犯の骨を持ち出さなくてはならない。次の新しい骨が捨てられるまでは、一応、少しは他の骨も混ざってしまったとはいえ、七人の遺骨は残っている。


これを盗み出すのは十二月二十五日の夜と決めた。米軍の監視がクリスマスで気がゆるんでいる隙に実行しようというのである。暗くなり、頃合を見計らって、三文字弁護士と市川住職は勝手知ったる飛田火葬場長の案内で火葬場の骨捨て場に忍び込んだ。


三人は米軍の監視に見つからぬように、闇夜の中で外套を頭からかぶり、身をかがめながら作業を始めた。三人は暗がりの中で音を立てないように、根気よく手探りで遺骨を探し集めた。七人の遺骨は全体の一部でありながら、大きな骨壷に一杯分を集めることができた。


火葬場から盗み取ってきた遺骨は、湿気をとるために再度焼かれた。遺骨のことが世間に漏れては米軍の咎めを受けることになる。そこで三文字の甥で、上海の戦線で戦死した三文字正輔の名前を骨壷に書いた。これを興禅寺に預けて供養することになったのが、A級戦犯として処刑された七名の秘められた供養であった。



《天皇と東条英機の苦悩》
〈塩田道夫著:三笠書房刊:知的生き方文庫〉







このようにして集められた遺骨は、翌昭和二四年五月にはまだGHQの勢力下に日本があったため、伊豆山中の興亜観音に隠されるように葬られました。しかし昭和三三年に入ると、他の場所に移してお祀りしようという話が持ち上がり、昭和三五年八月十八日にここ三ヶ根山(愛知県幡豆郡幡豆町)の山頂付近に移されることになりました。三ヶ根山には殉国七士廟が設けられ、その中の殉国七士の墓に遺骨が分骨されて安置され、今に至ります。

去る四月七日の夕暮れ、突然思い立ち、私は三ヶ根山にお参りに行くことにしました。桜も満開だしカメラもあるし、時間も丁度ぽっかりと空いていて、月もきれいだったので、地図を頼りに走りました。迷いながらも三ヶ根山の殉国七士の廟には深夜十二時過ぎに到着しました。駐車場で一夜を過ごし、翌朝早朝に撮影したものが以下の写真です。

玉砕。という言葉は以前から知っていたのですが、慰霊碑に書かれているものを見ると、まさに自身を矢そのものとして敵陣に向かっていく、その勇壮な戦士たちの姿が瞼に浮かび、「後に続くを祈す」という特攻兵の言葉と共に心を震わせられました。

また、戦後、満州に取り残された人々を無事に帰還させるためにロシア兵に取り入りさまざまな工作を行ったお町さんという方の石碑もそこにはあり、一つの民族として一丸となって助け合った日本人の情の深さに、何とも言いようのない感動を覚えました。




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三ヶ根駅の案内図。左下が三ヶ根山です。
三ヶ根山の観光案内図:駅にあります
温泉街。ここを左に抜けるとスカイライン
殉国七士廟の参道
殉国七士廟の入口には大きな石碑
殉国七士の廟のすぐ前には広い駐車場が

駐車場周辺の碑
駐車場周辺の碑
殉国七士廟の由来が書かれた碑
殉国七士の遺骨が納められているお墓へ
殉国七士の遺骨が納められているお墓へ
殉国七士の遺骨が納められているお墓

一体の遺骨となった殉国七士の観る風景
戦士達の慰霊碑
戦士達の慰霊碑
戦士達の慰霊碑
戦士達の慰霊碑
戦士達の慰霊碑

戦士達の慰霊碑
戦士達の慰霊碑
戦士達の慰霊碑
戦士達の慰霊碑
戦士達の慰霊碑
戦士達の慰霊碑

戦士達の慰霊碑
戦士達の慰霊碑
終戦後、残留日本人を救おうと活躍したお町さんの碑
戦士達の慰霊碑
戦士達の慰霊碑
戦士達の慰霊碑

B29のエンジンの説明書
海中から引き揚げられたB29のエンジン
戦士達の慰霊碑群からふたたび駐車場へ
駐車場周辺の碑
駐車場周辺の碑。湯川秀樹書
奈良の八重桜を献花します



2001年4月8日 日曜日

知一庵 忠君愛国 興亜観音